2012年3月12日月曜日

3.11 その三

去年の夏には被災地を訪れました。
陸前高田から海沿いを南三陸まで下りました。
あまりにも悲惨な景色が一面に広がっていました。
涙も出ませんでした。
目の前にありながらにして、現実ではないような…

集落と集落の間の尾根を越える度に
「津波警戒区域ここまで」「津波警戒区域ここから」
という標識が悲しく立っていました。
そして集落は壊滅的な被害でした。
これは私達の住む高知中土佐町と重なりました。
標識はありませんが、山を越えトンネルを抜けると海沿いの集落に出る。
町で見えていないけど、実は海はすぐそこにある。

気仙沼では一日だけボランティアをしました。
子供達にただ少しでも体験しておいて欲しかった。
何の役にも立たなかっただろうけど、
生の声が聞けて、地道な作業の大変さもわかりました。

そのすぐ後、夏季疎開が実現しました。
小学校を滞在先とした夏休み限定の疎開です。
去年の夏休みには関東から6組の母子と出会いがありました。
その中の2組は九州の方へ移住されました。

疎開、移住を決断したものの、
新しい土地で苦しんでいる家族もたくさんいるようです。

そうです、まさに人災である原発事故。
これこそ、長く尾を引くであろう災害。
苦しみを倍増し、私達の世代だけで解決できない事故。

私は声を上げることはしてきませんでしたが、原発には反対でした。
だから、子ども会で行く原発見学ツアーには参加しませんでした。
一度は見ておくべきかと参加しましたが、反対の気持ちは強くなりました。
子供は友達と旅行ですから行きたがりましたけど、
何回目かには、諦めたようでした。説明はしましたけど。

たいした知識はなくても、原子力とか核と聞いただけで、
長崎出身の私には恐ろしいものです。
両親や親族に被爆者はいないのですが、
毎年夏になると原爆教育があり、
空恐ろしい感覚が植えつけられていることを、今になって実感しています。
爆弾の恐ろしさでなく原子力の恐ろしさなのかな。
焼け野原を歩いただけで被爆してなくなった方々、
被爆した方の子供までが被爆2世として手帳を持っていたこと、
そんなことが私の世代にはまだ日常にありました。
私の通った小学校は原爆の後、病院として使われ、
階段一段一段に被爆者が苦しんでいたこと。
未だ後遺症に苦しんでおられる方がいること。

どうしてそこまでして電気を作らなくてはいけないのか。
もちろん原爆と原発は違いますが。
100%安全なんてない、
万が一の事故の時、どれだけのリスクを背負うか…
確かに私も電気を使っています。
恩恵を受けています。
でも原発を動かさないと足りないのなら、
使わずに暮らしていきたいと思います。
これを期に失敗は認め、もっと安全な発電方法を、
電気をなるべく使わない生活を、目指していくことは大切なことだと思います。
間違いは認め、失敗から学ばないと愚か過ぎます。

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