2011年12月31日土曜日

餅つき




クリスマスイヴにオーストラリア人と日本人の夫婦の家でパーティーがあり、餅つきをしました。
すごい取り合わせダナと思って…
つきたての餅をほおばり、「うーーーん、日本人に生まれてよかった」と言うオーストラリア人!
いろんな人が集まり楽しかったです。

彼が言うには、どうして日本人がこんなに餅にこだわるのかわからなかったそうです。
でも餅つきをしてつきたてのお餅を食べてわかったそうです。
それが、「日本人に生まれて良かった」。

私が小さい頃は田舎に住んでいても核家族の一人っ子。
家族で餅つきの記憶はありません。
母の実家にお正月は集まっても、餅つきは終えていたのか、頼んでいたのか、買っていたのか…
あーおじちゃんたちがついているのを見たことあるようなないような…

北海道ではよく見かけました。
保育所でもやったし、近所の農家さんの餅つきにもお邪魔したりしました。

ここ高知でも家でついたお餅をいただいたり、小学校で餅つきをしたりしました。
干し芋を混ぜたり、蓬を入れたり、きび餅なんかも良く見かけます。
高知も餅好きが多いようです。

地方で形が違ったり、お雑煮が違ったり、色んなお餅がありますね。
長崎(出身地)にはかんころもちがあります。
お餅と聞いて縁起の悪いことはないし、文化ですよね。
つきたてのお餅は美しくてあったかくてやわらかくておいしい。
まさに日本人の幸せを感じます。

皆様、それぞれのおいしいお餅をほおばる、良いお正月を迎えられますよう。

2011年12月24日土曜日

クリスマスイヴ

キリスト教信者でもないのにクリスマスを祝う…
というかパーティーしてプレゼントもらうのを楽しみにしている子供たち。
主旨が違うと思うんだけど…
デパートとかの作戦にまんまと引っかかっているんじゃないか日本人…
とか毎回ぶつぶつ文句を言いながら準備してしまう…

でも、
年末でなんとなくうきうきしてしまうし、冷たい澄んだ空気の中、星空を眺め夢を見てしまう、
そんないい加減でも楽しんでいるのは悪い気分ではないし…

今年はもうそれぞれがばらばらのクリスマスで家族でパーティーもできないかな。
私たちは友達のところでパーティに参加してきます。

我が家の3人の子供たちにはサンタさんがいる。
一番上の娘は高校生になって届かなくなり、
真ん中の長男には今年最後であろうプレゼントが届く予定であり、
次男は「なかなか欲しいものが届かないんだよな、去年は最悪だった」と文句をたれつつ、
「信じていないと届かない」と聞かされているから、信じて楽しみにしている。
古い日本家屋の縁側にサンタさんへのビールと手紙を置く息子2人。
今年はどんなプレゼントが届いくのだろう。
次男は満足するだろうか?

2011年12月21日水曜日

不登校その五、小さい学校

大きい学校、小さい学校、それぞれに良し悪しがある。
次男の不登校の場合、大きい学校であれば起きていなかったかもしれない。
小さい学校へ通っている次男は学校で友達に入っていくことが怖くなって始まった。
でも実際あったことは、世の中で報道されるようないじめからは程遠いことだった。
たまたま生意気で先走りしやすい次男がうっとうしがられただけ。
だから、小さい学校だから遊ぶ相手がいなくなってしまった。
勝手気ままに見えて、気の小さい次男は相手の言動に反応してしまった。
次男も元気な時は気にもしないことだったり、逆に自分がしていたりすること。
子供ならありがちな率直な言動に対応しきれなくて、
そのうち顔が引きつり、お腹が痛くなったり、知恵熱が出たり…
毎日行きたくないのに、行きたくないと言えず、行かなきゃと思い、
行ってから熱や腹痛で帰ってくるのが度々。
私はうまくいってない、行きたくないというのはわかっていたが、
行きたくないから行かないとは言えない次男。
行きたくないーーーと訴えてくれれば、私も引っ張ってでも行かせられたのかな。

その頃も、2年以上経った今でも、
サッカー友達がいる隣の大きい学校(といってもぎりぎり2クラス)に転校したがっている。
不登校の頃は「今このまま転校しても何も変わんないよ」と。
何も解決せず転校しても同じことを繰り返すか、問題をあやふやにしてしまうと思った。
確かに表面上はうまくいくかもしれないし、しなくていい思いなのかもしれなかった。
「このまま転校してもあなたもこの学校にとっても何のプラスにもならない」
小さい学校の悪いところは子供が何事においても切磋琢磨しない。
競うことがなくおとなしいがたくましくない。
そんなこともないのだけど、確かに打たれ弱いかもしれない。
グループに分かれるほど人数がいないので、みんなか一人か。
ここで何かをクリアにしないと転校しても無意味だと思った。
基本的に自由な精神でいてほしいけど、人と交わるには基本のルールがある。
いつでもみんなと仲良しでなくてもいい、自己主張していいし、
けんかもしていいし、もちろん一人でもいいのだ。
そんな中で学んでいけばいい。

今は学校生活を満喫とは言えないが、失敗もしつつ考え、学んでいるように見える。
子供ってその時遊びたいこと、その時遊びたい人があって、基本的に自由に遊んでいる。
その中で少ない人数のそれぞれにそれなりに気を回すことができるようになってきた、らしい。
先日の個人面談で担任の先生に聞いて、驚いたのだが…

今でも転校したがってはいるけど、あと1年と少し、この小さい学校で学ぶことは大きい。
そして次男は来年学校をまとめる最高学年になることを自覚している。
小さい学校は大きい家族のようであり、小さい社会であって、
その中で密な関係で関わりあいながら、子供は成長していっている。
大人も負けていられないのであった。

2011年12月19日月曜日

住む。

夏の終わりに雑誌の取材があり、我が家が掲載されました。
「住む。」と言う雑誌です。
テーマは10周年記念で『基本」に、かえる。』
聞いた時笑っちゃいましたが、我が家としては光栄かな。
基本にかえるも何も、こうでありたいより先に「こうしかできない」が勝っている気がする…
今の暮らしは楽しんでますけどね。

でき上がった本が送られてきました。
何だか我が家が載るにはおしゃれすぎる雑誌なので不安でしたが、
まあそのまま載っていました。
何だか普通すぎていいのかなって感じですが、
客観的に見られないので、わかりません。
山田脩二さんに撮っていただいた写真は、
なかなかうちの現実が撮られていたように感じました。
これまた光栄です。

とにかく本屋さんで「住む。」を見かけたら、見てみてください。
『「基本」に、かえる』の最初の記事です。

不登校その四、慣らし学校

担任の先生、養護の先生にはホント、お世話になった。
学校へ行くようになったものの、次男はもともと人と遊びたいタイプだから、
勢いがついてしまうのです。
半日から始まり、1,2時間クラスに入り、他は保健室で過ごす。
次男は「もう大丈夫なのに」とつぶやいていた。
私も実際、次男がだめと思うまで、みんなと一緒でいいのではないかと思っていた。
先生は「せっかく来られるようになったのにまたちょっとしたことで元に戻ることもあるから。
なるべく少しずつ長くしていって、そのうち大丈夫になるから。様子見ながら」と。
次男には「先生の言うこと聞いときなさい」とか言っておいた。

ずいぶん経ってから、現場にいる先生の言葉がわかったような気がする。
次男は学校へ行って友達と接することに恐れ、顔つきが強張っていた。
次にどう言えばいいか、どう動けばいいか、
まさにどっちの足から歩いたらいいのかわからない状態だったから、
やはりリハビリが大事だったのかも。
周りの友達にとっても先生にとってもそうだったのではないか。
結局、普通に学校へ行くようになるのに、一ヶ月くらいかかった。
その間に表情がほぐれ、言葉も行動も自然になっていったのでしょう。
周りもいつの間にか次男がそこにいることに慣れていったのかも。

そんな時笹場まつり(学習発表会)があった。
次男は準備に全部参加できていないから、劇や発表、合奏など、
できるところで、参加させてもらえた。
「もっとやりたかったのに」と言う次男に、
「今年は仕方ない、休んだから。来年はがんばりよ」と。
合奏でトライアングルをたたく次男に笑ってしまった。
子供って必死なんだな、何でも一生懸命なんだなって。

その半年を乗り越えたことで成長したのか、ほんとに乗り越えたのか今もわからない。
未だに人の目を気にする性格だし、怒られるとすぐにしゅんとなる。
あの子がこうした、この子がこう言った、誰々がけんかした。
子供って親の前でいい子でいたいから、人のことばかり言うし、
自分がほめられたことばかり言う。
それを聞いてあげつつ、我が子がやっていること、発信していることを、
見逃さないようにしないとと思う。
実は暗にどうしたらよいかヒントを求めていたりする。
やはり家は安心の場で欠点も認め合った信頼関係が必要だ。
兄弟はけなしあい都合のいいわがままを言ってけんかもするが、
家族でないと言えない指摘ができる関係でもある。
だから家では愚痴を言ってストレスを発散して、安心して外に出て、
そして帰って来られる場所にしなくては、と思っている。
そうは言っても、毎日がみがみ母ちゃんだし、ばたばたと忙しく過ぎていくのだけど。

2011年12月18日日曜日

不登校その三、行ってみようかな

休んでいる間、落ち着いては暮らせた。
でも次男はいつかは学校へ行かなくてはとは感じていただろうし、
行きたいとも感じていた。
放課後学校へ遊びに行ってもいい、帰ってきた友達とも遊んでもいい、
と先生も言ってくれていて、遊びに行ったこともあった。
ただ、「学校来やせんのに遊びゆう」とか、
「学校行きやせんのにサッカーには行きゆう」とか言われると不満を言った。
その時私は「ホントのことやん仕方ない、逆やったらそう言うろう?」と。
「学校は行けんけど、サッカーは楽しいやろ?ずっと家に閉じこもっていたら病気になるよ」と。
そしてその時、ここは田んぼがコスモス畑になっていて、
次男のクラスが見学に屋外学習に来た。
その時、声もしているし、「行ってみたら」と言った。
先生がお膳立てしてくれて。
そして次男は犬を連れて久しぶりに入っていった。
「○ちゃんが学校来いやって言いよった」と次男。
そう、またいやな事もあるとは思うけど、それを恐れていては何もできないし、
いやな時はいやと言う勇気も必要。
そして楽しいこともある。
楽しい時だけ行くことは、次男にとっても遠慮があったから。
そして、学校へ行ってみようと思ったみたいです。
きっかけは何でもいいと思う。
○ちゃんと遊びたい。
花に水をあげなきゃ。
給食が食べたい。
放課後遊びたい。
勉強がわからなくなる。
朝から元気に「行って来まーす」って楽しく行ってほしい。
でも何か一つ楽しみがある、そのために行く、それでもいいと思った。
世の中、楽しい事だらけではなく、
いやなことややらなくてはいけないことの方が多いかもしれない。
気の合う人ばかりでなく、合わない人も嫌いな人もいる。
でも一人では生きられないし、人と関わることで学ぶこと、
助けられること、できることはうんと増える。
だからけんかしてもいいし、うまくやれなくてもいいから、
学校へ行ってみる、そうしないと何も始まらない。
けんかも、喜びも。
そうして次男の通学再開。
担任の先生、養護の先生にお世話になりながら、
慣らし保育ならぬ、慣らし小学校が始まりました。

2011年12月15日木曜日

不登校その二、行かない日々

次男の学校へ行かない日々が始まった。
家では落ち着いていたし、家族のリズムに合わせて生活もできた。
毎日先生が空いている時間に来てくださって、様子を見てくれて、
宿題とか学校の様子とかを連絡してくれた。
もともとパニックに陥ることはなかった。
当時私はバイトを週に2日くらいしていたので、留守番もさせた。
本を読んだり、ボールを蹴ったり、出かけたりもした。
町でやっているサッカーも続けて行った。
一人で自転車でうろうろしたりもしていた。
笹場はハウス農家さんもいて、そこにも顔を出していた。
そこではお茶の時間があるのだが、そこにお邪魔して色々話したりしていたらしい。
たぶん、私に言えないこともあったと思う。
お茶の時間だけでなくお邪魔して豆を摘むだんなさんの横で
「男同士の話をしていたよ」と奥さんが笑って話してくれた。
また、近所のおもしろいおじいさんのところへもよく行っていた。
「笹場の殿様だった」と言うユーモアのあるおじいさんだ。
そこで七面鳥や地鶏を見たり、ちゃんばらを教えてもらったり、
木の枝で剣を作って見せたりしていた。
あーなんて恵まれているのだろうと思った。
子供のほうが地域の方々を良く知っている。
田舎の小さな集落にいて良かった。
まさに地域の人に助けられた。
うつうつとはしていなくて、充実した日々を送れたのは地域の方々のおかげ。
次男にとって学校だけが全てではなく、色んな楽しみがあり、
色んなつきあいが広がり、色んな人と話し繋がった貴重な経験だ。
それは彼の心にゆとりができ、強くなれたのだと思う。
いやなことがあった時、困ったことがあった時、そんな時どうしたら良いのか、
少しだけど、どうにかできると光が射してきたのではないかな。
私にとっても、子供と二人きりで閉じこもることはなかった。

子供は先生の前、親の前でそれぞれ良い子でいようとする。
親にも先生にもほめられたいのだ。
うまく行かなかった時、むしゃくしゃする時、ぱーっと愚痴を言う、
忘れて体を動かしたり、違う人と触れ合ったりして、忘れる。
そう、大人と同じくストレス解消が必要だ。
だめな自分も認めて、完璧ではない自分を愛おしく思うことは大切なこと。

もう一つ感じたのは、愛情不足。
次男は末っ子で甘やかされていても、親はどこかで手を抜いている。
甘え上手で図太く世渡りにしているよう見えるものだから、
この子は大丈夫という感じで接してしまう。
でも実は人目を気にして繊細な部分を持っているのだ。
まだ9歳だった、そう、もっと傍にいてほしかったのかも。
休んでいる間、べったりとはしていなかったけど、
二人でいる時間、向き合う時間はたっぷりだった。
夫は岡山単身赴任中で、それはそれで良かった。
父ちゃんには一目置いているから、休みたいなんて言えなかったと思う。
父ちゃんの所へも泊りがけで遊びに行った。

そんな感じで親子が癒されていったのです。
はい、長女長男もとっても協力的でした。

2011年12月14日水曜日

不登校その一、学校は行かなくてもいい

次男が3年生の時、不登校になったことがあった。
休んだのは2週間くらいだったから、不登校とは言わないのかな。
1学期の途中から友達とうまく遊べなくなった。
毎朝、学校へ行かせるのが大変だった。
具体的な理由は色々あったけど、そんなことたいしたことではなかった。
次男は人と遊びたいタイプ。
それなのに自分の遊びたいことが通らない時、入っていかない。
入りたくなければ入らなくていいのだけど、人と遊びたい。
それならルールがあるはず。
人が遊びたいことにも付き合う。
遊んでいるみんなが楽しめるようにする。
自ずと自分のやりたいこともやることもできるし、みんなが仲良く遊べる。
まあ揉め事けんかはつきものだし、それによってまた学ぶのです。
小さい学校は上から下まで一緒に遊ぶ。
その縦社会や合わない子とも付き合うことは、とても貴重な体験。
そうやって6年間過ごしていると、その人の角から角まで知り尽くしている。
大人の付き合いと違って子供のつきあいは未熟だけどその分本気だしシビア。
表面だけの付き合いではない。

長女、長男とは違って、次男はどうしてもわがまま。
わがままは子供の特権だからいいとして、許されるわがままとそうでないものがある。
年齢で違うし、状況でも違う。
一生懸命行かせようとしていた時は、こんこんとその辺を解いた。
そんな時はこうしてみたらあーしてみたら、
どうしてこんなことになるのか話し合う、
自分が悪い時は謝る。間違ってかまわない。けんかしてかまわない。
もうすぐ夏休みだから、もうすぐ運動会だからとどうにか通わせた。
そのうちひょんなことからいい方向へ回りださないかと。
それでも状況は打開せず…
学校へ行きたいけど怖い次男と行かせることに疲れた私は、
とりあえず長期で休むと決め、腹を据えて向き合い、
力を蓄えることにした。
この機会に一人で遊ぶことの面白さもわかるといいと思った。
一日はきちんと起きてきとんと勉強もやって、きちんと体も動かす。
やりたいことやって良いけど、やらなくてはならないこともやる。
家の手伝い、留守番もやる。
休むと決めたんだから、こそこそしない、外でも遊ぶ。
色々決まりごとも決めたなあ。
だって子供がだらだらと家にいて、それが楽チンと思われると、こっちが困る。

学校は行ったほうがいいけど、行かなくてもいい。
そう思うと私の方がとても気が楽になった。
でも行かない状況がいつまで続くかというのはとても恐怖だったなあ。

2011年12月13日火曜日

オーガニックマーケット 収穫祭出店

収穫祭リベンジは晴天に恵まれ、無事終了しました。
私も今年最後の出店をして、楽しんできました。
足を運んでくださった皆様、ありがとうございました。
なお、オーガニックマーケットは今年後2回あります。
しめ縄も登場します。お楽しみください。

今回のオーガニックマーケットで開催された「玄米の炊き方教室」に参加しました。
私も毎日のように玄米を炊いていますが、面白かったですよ。
洗う時はお米が周りが見えて気持ち良いようにガラスのボウルで、とか、
右回りにそおっと洗う、とか、
圧力鍋のふたを開けて10分で沸騰するくらいの火加減で炊き始める
(お米がお風呂に入った感じで気持ち良くふっくらするように)、とか、
塩を入れるのは沸騰してから高い位置から右回りにエネルギーをこめる感じで、とか、
炊き上がったら火から下ろして、これから蒸らしてねって周りをふいてあげる、とか諸々。
とにかく貴重なお米を丁寧に、お米と食べる人の気持ちを考えて炊く。
私は全然そんな丁寧に炊いていない…
毎日といかなくても丁寧に炊いてみようと思いました。
やはりその気持ちが違うんだよね。

高知海岸の朝日
土曜は出店、日曜は次男のサッカーの大会で過ぎていきました。
師走は早いぞー。

後は家の掃除片づけや、やりたかったことのあれやこれやをしながら、
今年を振り返りつつ、お正月の準備をしたいと思っています。

土曜の皆既月食はとてもきれいに見られたそうです。
私は疲れと次の日のために早寝しました。夫と長男は見てました。
でも日曜のサッカーの行きには太平洋からの日の出、
帰りにはでっかい真っ赤な月の出が見られました。
久礼の月の出
何とも美しく妖しく、感動しました。
かめ設計室のお二人さん、海からの月の出を見たぞ、それも満月!

2011年12月6日火曜日

家の記憶

とうとう12月、ほんと一年って早い…

お正月は帰省します。
夫の実家の福岡県八女へ。
私の実家は両親が亡くなってしまったので、借りてもらってます。

長崎の西彼杵半島の外海に面した漁師町です。
ここ中土佐町と似たような規模の似たような気候の似たような地理の町です。

私は小学3年の夏までそこで育ちました。
記憶はとぎれとぎれに残っています。

その頃はお正月には母の実家に行っていました。
長崎の佐世保。
親戚集まって賑やかでした。
私は一人っ子ですので、楽しみでした。
夜更かしをして紅白を見て、おじちゃんと初詣に行っていました。
おじちゃんにはとってもかわいがってもらいました。
ばあちゃんとおじちゃんは私が高校生の時に亡くなり、
おばちゃんは去年亡くなりました。
いつもすばらしい御節料理がありました。
もちろん洋服の時代でしたが、家では着物を着ていたおばちゃんでした。
きれい好きでいつもお正月でくつろいでいる時でも、
おばちゃんだけが掃除をしていました、着物で。

私も高校を卒業して長崎を離れ、長い年月が流れました。
たまに佐世保に顔を出すと、おばちゃんはいつもきれいな家で、動き回っていました。
近況を話したり、おじちゃんや私の父母の思い出話をしたり、
おいしいものをいただいたりしていました。
私の記憶の中の佐世保の家の住人はおばちゃんだけが残っていました。
そのおばちゃんが亡くなり、今は孫が一人で暮らしています。
家は何度かの改装を繰り返してはいるもののそのままそこにあり、
いとこの子供(おばちゃんの孫)が守っています。

勝手な話ですが、その子がそのうち嫁をもらい、
その家で、また新しい時代の家族が住み、
親戚が集まる賑やかなお正月を迎えてくれるといいなあ…
なんて思ってしまいます。

ほとんどの人がそんな風に、記憶の中の家があると思います。
あの家がまだあるかなあ、なんて思って探してみたりすることもあります。
あると嬉しくなり、まだあったことを不思議に思ってタイムトリップしたりすることもあります。

家は黙って受け止めています。
今の一世代を保つ家とは違って、昔からの家は、
長い時でたくさんの家族を包み込み、人間模様を見てきました。
喜びも悲しみも包み込み記憶しながら、じっとそこにあります。

今度のお正月には父母の墓参りと佐世保の家に顔を出し、
おばちゃんにお線香を上げてこようと思っています。
あーその前にやることがいっぱいあるのだけど…

オーガニックマーケット 収穫祭出店

オーガニックマーケット収穫祭、12月10日土曜日、出店することになりました。
きっと今度こそ良いお天気に恵まれるでしょう。
是非、おいでください。