2012年3月29日木曜日

薪ストーブ終了

今日は暖かい一日でした。
今年はなかなか春らしくならず、寒い日が続きました。
しかし、もうすぐ4月。
もう春でしょう!

昨夜は次男の友達が2人、小屋に泊まっていましたが、
今朝は外で少し遅い朝ごはんを食べました。贅沢。

4月になるとまた長期出張に出かけてしまう夫と、
薪ストーブを片付けました。
夫がいないと片付けられないので。

薪ストーブは据え付けてしまうものですが、我が家は夏の間は取ってしまいます。
後付のストーブですから。

高知ではストーブの季節は短いですし、
ストーブをはずしてしまうと、とてもすっきりします。

この暖かい日和で、ストーブを片付けると、
春を向かえ夏の家に一つ近づいた感じで、晴れ晴れとしました。

襖や障子、風除けカーテン、網戸等、一つ一つ、夏へ向かって家も変化していきます。

2012年3月28日水曜日

子供の時代 続き

結局、長男にも携帯を持たせることにしました。
一人で自転車で遠出することも多いので。
前回も公衆電話を探すのが大変だったそうで。
でも、それも私が一度は電話するように言っておいたからで…
ほんとに大変なことになったら、そこに居合わせた人に頼むこともできるし、
どこかに飛び込んで助けを求めるとか…
どうにかなるもんだし、どうにかすることを学ばないといけないですよね。
その点、携帯は持っていない方がいい。
そして、どこにいてもつかまる鬱陶しさもあるわけで。

まあ、長男は携帯を欲しがったので、
親の許せる兼ね合いのところで、持たせてみました。

月々の支払いは自分でする。
メールも電話も使った分だけかかる(家族間は無料)。
メール機能はつけない(1ヶ月経ったら契約からはずす)。

ほんとに必要な連絡は経費がかかってもかけたらいいし(そのための携帯)、
使っただけ自分で支払わないといけないので、たぶん無駄には使わないだろう。
どうしても必要な使い方をして金額が大きくなった場合は、親が支払ってもいいかなって。
ただ持ちたがる子供に、じゃあどうぞって買って与える気にならなかった。
自分の貯金をはたいて買った、ipod toutchも持っているし、
家ではネットが使えるしメールアドレスも持っているんだから。

夫はふと、なら持たせなきゃいいじゃん、って、ほんとそう。

若者が何人か一緒につるんでいるのに、
それぞれが携帯やゲームをつついているのを見るのは、
少し恐ろしい気持ちになります。

そこにいる人とのコミュニケーションがとれないでどうする?

一台にいろいろな機能がつき、ホント便利になりました。
でもそれを子供が野放しに持たされているのは…
大人は携帯やネットの恩恵を受け、
仕事や生活に活用することができると思っていますが。

私達の時代はテレビも電話もありましたが、
そのシステムが不思議でたまらなかった。
でも今は普通すぎて、不思議にも思わない。

その子供達が大きくなった頃、感覚はどうなっているのでしょうか?
いつの時代も大人は子供を見てそう思っていたのでしょうか?

携帯一つでそこまでって、うちの子達はしらーっとしてますけど。

今の日本は問題山積みで大人がだらしないように見えてしまう。
一般庶民はほとんどの方が一所懸命働いてまじめに生きていますけど。
今の子供達は大人達を今の時代をどういう風に見ているのでしょうか?
それは子供達が大人になった未来に答えが出るんでしょうね。
そう、未来を育てているんです。

私の子供の頃、携帯もネットもありませんでしたが、
子供達はもっと生き生きとしていたように思えるんです。

私もずいぶん歳をとったものだなあ。

2012年3月25日日曜日

子供の時代

長男が高校生になるに当たって携帯を持たせるかの議論が起こりました。
長女は持たせています。

何事においても議論に持ち込む我が家は、子供にとって鬱陶しい親なのです。

長女の時も議論の末、与えてしまいました。
自分の小遣いから払うという約束で。
最近は普通に使えば千円程度で済みますから。
しかし、メールとかかって来る電話で結構な時間を費やしています。
メールし放題とか家族割なんてあるもんだから、
使っても費用が定額だったりて、持っているから使ってしまう。
困った。

ほんとに携帯が必要な人や必要な時って、ないもんです。
だって一昔前まではほとんど持ってなかったし、困ったことがない。
便利な時も、もちろんありますけど。

こんな時、いい時代になったなあ、なんて思いません。

家電が発達し、便利グッズがいっぱいで、田舎でも情報は氾濫したけど、
いい時代になったって感じられません。

近所のおばあちゃん達は、
「今の若い人はいいねえ、いい時代に生まれたねえ」って言います。
「私らの子供の頃は…」とか「私らの若い頃は…」とかって。
もちろんそうでしょうとも。

しかし、私達が子供の頃と、今の子供の時代を考えると、
いい時代になったなあって思えません。

どこからいい時代が始まって、そして終わってしまったんだろう。

確かに今の時代は物と情報にあふれています。
でも私らの子供の頃はもっといい時代だったよ、子供にとってかもしれないけど…。

2012年3月24日土曜日

木蓮

木に咲く花が好き。
今は木蓮がきれい。
桜の前、梅の後、大きく可憐な花が美しい。
白木蓮も紫木蓮も好き。
この辺りは暖かいからかこぶしより木蓮が多い。
北海道ではこぶしだったなあ。
こぶしはもう少し繊細で可憐でしたたかな感じがする。

この近くで一番に開花する桜を毎日チェックしている。
先日少し開きだしたなと思っていたら、
今日は三分咲き。
次男のサッカー遠征のため、集合場所まで6時に送る。
朝日も見られた。
強い冷たい風が吹いていましたが、春だなあ。

昨日は小学校の卒業式。生憎の雨。
小さい学校なので、終了式と一緒に行う。
何とも手作り感のある卒業式。

上の子の時は、まだ生徒が20、30人いたから、
合奏も歌も呼びかけも立派だったけど、
とうとう一桁になってきて、今年はどうだったろう。
合奏も在校生全員でやるから、
上級生が多いと聞き応えがあるけど。
去年は在校生が6人の卒業式。
合奏はちょっと危ない感じになってきていた。
それでもまあ内輪の式だから、かわいいもんですよ。

来年、次男が卒業する時には、
卒業生4人、在校生3人…
あー、子供が増えてくれないかしら。

子供ってすごい。
やらせるとできちゃうんだ。
やる気を引き出すことのできる先生はすばらしいと思う。
負担になることも多いけれど、
少ないから一人ひとりの役割が大きいのだから仕方ない。
卒業式は卒業生だけでなく、みんな主役級。

桜はまだ少し先だけど、
木蓮のように凛とした可憐な花を咲かせて欲しい。

2012年3月21日水曜日

拾い猫のその後

9月に長男が拾ってきた子猫が、友人宅で飼われています。
まだ授乳が必要なほど小さく、哺乳瓶でミルクをあげていたのに…
もうすっかり大きくなりました。
たぶん7,8ヶ月、まだ一年経っていない。

友人宅は広い敷地に一軒家で、まわりに人気がなく、
自由にのびのびと動き回っています。
うちの犬とは大違い。
いいなあ、猫は。

男の子でした。
ねずみとかも捕らえるようになり、役にも立っているみたい。
もう友達だか彼女だかができて、連れてくるようになったらしい。
でも実は、メス猫のほうが言い寄り、ずうずうしいメスが、
危機感のない純情な彼を利用して上がりこみ、
ご飯までいただいているのかも。
だまされずに良いお嫁さんに恋をするんだよ。
とにかく猫は人間とは違うスピードで成長しました。


2012年3月16日金曜日

卒業式

桜はつぼみがまだ固いですが、昨日、中学校の卒業式でした。
とてもいい卒業式でした。
これで義務教育を終えたことになります。

思春期によくあるいきがった態度で、こちらが不愉快になる、
といったことが全くなくて、爽やかな卒業式。
卒業証書授与の返事や態度、国家、校歌斉唱、記念品授与、答辞、
立っている態度、座っている態度、入場、退場、
全てにおいて卒業生が素晴らしかった。
町長、校長、来賓、それぞれの祝辞、そのどれよりも卒業生が素晴らしかった。
でもそれはこの学年の生徒が、いかに充実した中学校生活が送れて、
とても学校を愛し誇りに思っている証拠なんだなあ、と思いました。
とてもやんちゃだった子もこの日は堂々ときちんとできていたし、
みんなが晴れやかな様子で、
こんな風に成長してくれるのは親として地域として嬉しいことです。

長男は保育園の年長から高知へ引っ越してきました。
半年は隣の集落の小さい保育園へ通い、
住んでいる地区の小さい小学校へ入学しました。
そしてまた隣の地区の町で一番大きい中学校へ入学しました。
一番大きいといっても一学年二クラスで全部で49名。
ほとんどの子が小学校からそのまま上がり、
他の小学校から入るのは2,3名という少数派でした。
小学校時代は隣の集落のサッカーチームへ入っていたから、
隣の集落にも友達はいたのです。
それでも最初は寂しかったと後で言っていました。

その中学校の保護者はまさに保育園から中学校までずっと付き合ってきています。
子供が生まれてからずっと、といった感じで。
その上小さいコミュニティーで暮らしているから、
親同士、先生、地域、とつきあいが濃いんです。
親戚もたくさんいますし。
同じクラスにいとこがいるとか、同じ学校に親戚が何人もいるとか。
だから「15年間ありがとう」という言葉が、まさにそのままの意味を持ちます。
これから初めて自分の意思で、
ここのムラから離れた集団に少数派として飛び込むことになります。

でもあの卒業式を見て、みんな頑張れると思いました。
「これから辛いこと悲しいこと、困難なことがあると思いますが、
この仲間や学校のことを思い出して頑張ってください」
なんて、よく言うじゃないですか。
それがほんとに実感として思うんです。
ここでの仲間や経験を糧に、これからも頑張っていける。
そう、そんな感じのいい卒業式でした。
いろんな子と関わっていたし、忙しい部活の隙をぬってよく遊んだ。
私の知らない保護者の方、先生方、そして、遊んでくれた仲間、
ほんとにありがとう、これからもよろしく。
息子よ、卒業おめでとう!

2012年3月14日水曜日

永遠のおでん

1月の初旬におでんを作った。
冬の定番メニュー、おでん。
その時、ふと、「毎日おでんがあるのもいいかも」と思った。
他のおかずもあるとして、おでんがいつも毎日あるのもいいかも…

子供が大きくなって、生活時間帯が合わなくなってきた。
小学生までは良かった。
お風呂もご飯もいっせいに終わった。
その頃は、「冬は鍋」だった。
しかし、今は小中高となり、、帰宅が5時8時9時と分かれる。
どんどん複雑になり、毎日、「今日は何時、弁当は誰」と面倒くさくなった。
大人ばかりで時間が違うと誰かに合わせられるし、自分でもできる。
しかし、子供が混じっているので、誰かに合わせることもできず。

用意するのも片付けるのも二度手間、三度手間…
結構ストレス。

そこで、毎日「おでんはある」という風にしてみた。
毎日のように何かを足していく。
結構飽きないものである。
毎日必ず食べるわけではないのだけど、
「毎日でも飽きない」と子供も言う。
準備に時間がかけられない時、遅い人がいる時、便利!
ストーブがついている時も多いから、温めるのも簡単。

いつの頃からか子供らは「永遠のおでん」と呼び、楽しんでいた。

しかし、困ったことに大根の季節が終わろうとしている。
やっぱり、おでんには大根だよな…
ってことで、永遠のおでんは終了しようとしている。

夫は1月は2週間、2月から今日まで1ヶ月半、台湾に行っていた。
今回帰宅して「おおおおおー、まだやっとったか!」と驚いていた。
子供は「父ちゃんが帰ってくるまでは粘ろう」と、なぜか意地になっていたけど。
もう春になるから、おでんも来年の冬まで夏眠かな。

おでんしか食べていないわけではないから心配しないでね。

2012年3月13日火曜日

雪割桜

暖かくなった、春だなあ。
なんて思っていたのに、先週末からまた寒くなりました。
三寒四温。

最近朝、次男と犬の散歩に行くようになりました。
近くに山の裾に一本の立派な雪割桜があります。
毎年、梅の咲く頃、立派に咲いてくれます。
今年も今、満開。
桜よりだいぶ濃い桃色をしていて、見事です。
この桜を見ると、その家のおばあちゃんを思い出します。

とてもかわいいおばあちゃんでした。
5年位前にがんで亡くなりました。
元気な時はニラのハウスをしていて、ニラや野菜をよくいただきました。
控えめながらも天然のようなユーモアを持っていてかわいかったなあ。
いつもニコニコしていて、
みんなと話していておかしいと大きな口を開けて笑っていた。
雪割桜は長男のお嫁さんの実家の近くで有名で、
それでここに植えたとか。
その花を眺めながら話をしたなあ。
亡くなる寸前には病院で、家族や親族たちに遺書のような願いを書いていたそうです。
気丈で皆を思いやるメモのような手紙。
それぞれに言い遺したいことがあったんだろうけど、なかなかできないことだと思います。

その世代はすごい時代を生き抜いてきている。
今でこそ平和で穏やかに暮らしているけど、
色んな苦労を余儀なくされた時代。
その温厚でたくましい年代の方が亡くなるのは、
田舎の遺産をなくしているように思えます。

その雪割桜を見上げておばあちゃんを思い出し、
私達の世代は何を遺せるのだろうか、とふと考えてしまいました。

2012年3月12日月曜日

3.11 その三

去年の夏には被災地を訪れました。
陸前高田から海沿いを南三陸まで下りました。
あまりにも悲惨な景色が一面に広がっていました。
涙も出ませんでした。
目の前にありながらにして、現実ではないような…

集落と集落の間の尾根を越える度に
「津波警戒区域ここまで」「津波警戒区域ここから」
という標識が悲しく立っていました。
そして集落は壊滅的な被害でした。
これは私達の住む高知中土佐町と重なりました。
標識はありませんが、山を越えトンネルを抜けると海沿いの集落に出る。
町で見えていないけど、実は海はすぐそこにある。

気仙沼では一日だけボランティアをしました。
子供達にただ少しでも体験しておいて欲しかった。
何の役にも立たなかっただろうけど、
生の声が聞けて、地道な作業の大変さもわかりました。

そのすぐ後、夏季疎開が実現しました。
小学校を滞在先とした夏休み限定の疎開です。
去年の夏休みには関東から6組の母子と出会いがありました。
その中の2組は九州の方へ移住されました。

疎開、移住を決断したものの、
新しい土地で苦しんでいる家族もたくさんいるようです。

そうです、まさに人災である原発事故。
これこそ、長く尾を引くであろう災害。
苦しみを倍増し、私達の世代だけで解決できない事故。

私は声を上げることはしてきませんでしたが、原発には反対でした。
だから、子ども会で行く原発見学ツアーには参加しませんでした。
一度は見ておくべきかと参加しましたが、反対の気持ちは強くなりました。
子供は友達と旅行ですから行きたがりましたけど、
何回目かには、諦めたようでした。説明はしましたけど。

たいした知識はなくても、原子力とか核と聞いただけで、
長崎出身の私には恐ろしいものです。
両親や親族に被爆者はいないのですが、
毎年夏になると原爆教育があり、
空恐ろしい感覚が植えつけられていることを、今になって実感しています。
爆弾の恐ろしさでなく原子力の恐ろしさなのかな。
焼け野原を歩いただけで被爆してなくなった方々、
被爆した方の子供までが被爆2世として手帳を持っていたこと、
そんなことが私の世代にはまだ日常にありました。
私の通った小学校は原爆の後、病院として使われ、
階段一段一段に被爆者が苦しんでいたこと。
未だ後遺症に苦しんでおられる方がいること。

どうしてそこまでして電気を作らなくてはいけないのか。
もちろん原爆と原発は違いますが。
100%安全なんてない、
万が一の事故の時、どれだけのリスクを背負うか…
確かに私も電気を使っています。
恩恵を受けています。
でも原発を動かさないと足りないのなら、
使わずに暮らしていきたいと思います。
これを期に失敗は認め、もっと安全な発電方法を、
電気をなるべく使わない生活を、目指していくことは大切なことだと思います。
間違いは認め、失敗から学ばないと愚か過ぎます。

2012年3月11日日曜日

3.11 その二

今日は、高知市の3.11の集会とデモに参加してきました。
そう、あの日から一年。
何名かの方のお話を聞き、黙祷。
一年前のあの日のあの時間、悲劇が突然始まった時間。
その寸前まで日常が、なんでもない日常が営まれていたであろう次の瞬間、
地面が大きく揺れたんだろうな。
そして想像できない時間が始まった。
地震という足下の地面が揺れること自体、恐怖。
追い討ちをかけて津波、原発。
目の前の光景がガタガタと音を立てて崩れてく恐怖。
目に見えない放射能の恐怖。
戦争を知らない私達にあまりにも大きい試練。
こんなに離れていて結局想像の世界ですが、
被災された方々の心中を思うと、
亡くなった方々の無念を思うと、
胸が詰まり、涙がこぼれます。

こんなに離れたところにいても、地獄のような映像は、
明日の我が身であり、しかし、現実とはかけ離れていて、
何とも息が苦しくなる思いでした。
南海地震がいつ来てもおかしくないといわれている高知では、
まさに人事ではありません。

毎日が心ここにあらずで、何かできないかと、夫と模索する日々でした。
結局、きちんと日常を大切にすることではないかと思っています。

知人の紹介で東京から移住してきた一家がいます。
すごいスピードで東京を出て、移住を決めてしまいました。
今は親しく付き合っています。
私にとってとても大きな出会いとなりました。
それこそこの震災あってのことです。

被災された方々には失礼になるかとは思いますが、
この震災は私達にあまりにも多くのことを教えてくれました。
そう、考えること、自分できちんと考えること、
きちんと備えること、そしてたくさんの出会い。
たくさんの命、今も苦しんでいらっしゃるたくさんの方々、
その悲しみ苦しみを無駄にしないよう、
今いる私達が学習し、生き抜いていかないといけない。

あの日、この時間を思うと、涙があふれます。
犠牲者のたくさんの命のご冥福をお祈りいたします。

2012年3月10日土曜日

3.11 その一

東日本大震災から1年。
遠く離れたここ高知でも恐ろしい日でした。
まさに現実とは思えない光景を見て、
息が詰まるような日々を過ごしました。

その日、私はバイトの日でした。
その頃、鮮魚店の食堂のようなところでバイトしていました。
昼の混雑が終わり、片付け、明日の準備と、
鮮魚と食堂を行ったり来たりしていると、
奥にあるテレビを職員が出たり入ったりしてのぞき、
ざわざわと騒ぎが大きくなってきていました。
私はチラッと見えたテレビで、うわーでかい地震が起こったな、と、
その時はまだ津波の被害は起こっていなくて、
津波警報が発令されていることをテレビは伝えていました。
バイト先も津波の警報が出ていることを知りました。
鮮魚店は大正市場という観光地にもなっているところで、
他にも漁師のおばちゃんたちが店を出しているし、
商店街になっていて、皆が一様に片づけやらをばたばたとしている時間でした。
もちろん買い物客もピークは過ぎていましたが、いました。

市場は漁師町にあり、海はすぐそこ、
そして津波警報が出て、消防の人たちが堤防を閉めたりしているにもかかわらず、
市場ではいつもと変わらず働いていました。

私は家に電話して、夫に地震があったことを伝えました。
私も早めに帰ることも伝えました。
私は早めに仕事を終えて、当面の買い物をして帰りました。
子供達は学校待機になっていました。
夕方、長男は自分で自転車で帰宅。
次男は小学校へ車で迎えに行きました。
高知市に通う長女は電車も止まっていましたが、
迎えに行く道も津波が危ないところなので、
津波警報の情報を確認して、夫が高知まで車で迎えに行きました。

とにかく津波警報をテレビを点けっぱなしで確認しながら、
東北の地獄のような光景を見ることになりました。
すぐに逃げることなどを考えつつ、とりあえず布団に入ったものの、
何ともいえない落ち着かない気持ちで、
胸につかえたものを飲み込むことはできませんでした。
みるみる被害は広がり、次の日、津波警報は解かれました。

結局、中土佐町には津波は来ませんでした。

しかし隣の須崎市には1m以上の津波が来て、
養殖業等が甚大な被害を受けました 。


次の日から一時も東北から気持ちは離れず、
地震、津波に加え、原発事故が報道されていました。
テレビとネットで情報を探りつつ、
東北、関東の知人の安否を確認しあいました。

もうどれもこれも悲しみと怒りで、
どうにもこうにもできない感情が渦巻いていました。

明日は黙祷を捧げ、高知でデモに参加します。

2012年3月9日金曜日

大人

17歳で「自分は大人になった」と感じる。
しかし27歳でそう感じている人は成長していない。

というのを聞いたことがある。
確かに思春期の頃、自分は大人になった気がしたもので、
27歳の頃、大人ってこんなもんか、27歳ってもっと大人に見えていた、
と感じたものだ。
ということは、私は成長していたってことか?

いつまでも少年みたいな男性は魅力的という。
しかし、ほんとに少年みたいな男性とは、
「早く大人に、もっと大人になりたい」と思っている人らしい。
確かに、少年とは「大人になりたい」と思っているようだ。

歳とか大人って定義はあいまいだし、人それぞれの価値観で変わるものだ。
ほんとに若い頃は早く大人になりたいと思っていたのに、
いつの頃からか、若々しくいたいという歳になっていた。
歳を取ったということ。
若々しくいたいとは思うものの、実際に歳が若くなりたいとは思わないなあ。
上手に歳を重ねていくことが目標かな。

思春期の子供を約2名抱えて、あー若いってパワーがいるなって感じる…
立派に口答えして理屈をこね、大人ぶっているところや、
「早く大人になって、一人暮らししたい」なんて思っているところを見ると、
まったく腹が立つと同時に、全うに成長しているなと感じる。
しかしこれが高校卒業する頃に、ずっと家にいたいとか言い出したら怖いなあ。
心も体も自立。その頃、親としての私も自立していたいなあ。
子供と大人同士のつきあいができるようになるのは楽しみかな。

2012年3月5日月曜日

啓蟄

今日は啓蟄だったそうで。
昨日からの春雨模様。
雨が降ると朝晩が暖かく、今日は昼間も生暖かい空気。
そして雨上がりにはかえるの合唱が聞こえている。
今日は家の中で、何か虫が飛んでいたし、ハエとか蚊とか。
確かに啓蟄。
これが田んぼに水が入る頃には、かえるは大合唱になり、
蚊取り線香が手放せなくなり、網戸をしなくてはいけなくなる。

その前に薪ストーブを片付けて…
畑も耕さないと…
何だか春が本番になってきて、忙しくなってきたぞお。
うきうきそわそわしてきたぞお。

今年は灯油を今のところ7回買いました。(18ℓ×7)
例年の半分くらいではないかな?
たぶんこれで買わずにすむと思う。
今年の冬は寒かった。確かに寒かった。
でもこの家の寒さにも慣れてきた。
秋には14度で震えていたのに、春に向かうときは14度だとストーブ要らない。
体は順応しているんだ、っていつも温度計を見て確かめてしまう。

一雨毎に暖かくなるとは思うのだけど、雨、多すぎやしないかな?
洗濯物が乾かないんだけど…

2012年3月4日日曜日

ひな祭り

去年はお雛様を出すことをサボっていました。
今年もぎりぎりまで出そう出そうと思いつつ、出さずにいたのですが、
3月に入ってからやっと出しました。
子供が大きくなると、そんな季節の行事を省くことも多くなり、いかんなあと。
毎日がばたばたしてしまって。
近所でいただいた桃の花も飾って、ひな祭りらしくなりました。

長女のお雛様は私の母が用意してくれました。
お内裏様とお雛様だけの木目込み人形の立ち雛。
知り合いの方に作ってもらったようです。
母は手芸に長けていましたから、自分でもいくつか作ったようです。
初孫であり女の子の長女には特別に思い入れがあったようです。
出す時には必ず母を思い出すものです。
長女のお雛様は世界に一つで、優しい表情で、とても素敵です。

私のお雛様は段飾りで、持ってきていません。
移動ばかりしている根無し草ですから。
実家で眠り続けているお雛様は、どこにあるかも定かではないのですが、
いつかは買ってくれた祖母たちを思い出しつつ、
出してみたいと思っています。