2012年9月17日月曜日

電気について考えたこと

電力会社は商売だから電気をふんだんに使ってほしい。
だから電気を使う商品を開発する。
本来電気でなくても良かったものまで電化製品にする。
電気を使わせて、ほら電気って便利でしょ、電気ないと暮らせないでしょ、と思わせる。
電気を使え使えとあおっておいて、危ない発電までしておいて、
事故になると、節電しろ、ほら電気ないと苦しいだろう、あなたたちが電気を作らせたと言う。
美味しい汁を吸ったのはごく一部の人たちじゃない?
そういうからくりかなあ。

まあ電気の便利さに甘んじてきたわけだから、電力会社だけを責めるわけにはいかないけれど、
危ない電気を使ってまで電気に頼らなくてもいいんじゃない。
電気を使わなくてもいいものもたくさんあると思うし、
消していい電気もたくさん使っていると思う。
電気代は自分で払っているし、お金はあるからいいでしょ、ってことではなくて、
使わなくてもいい電気は使わない、ってだけでもだいぶ節電できるんじゃないかな。
観てもいないテレビ、誰もいない部屋の電気、垂れ流し状態の電気はたくさんある。

すぐに原発ゼロでといかない理由はあるんだろうけど、
(納得はいかないけれど安全を確認したと言われる)安全な原発は再稼動して、
徐々に原発ゼロなんて中途半端なことはしない方がいいと思う。
大飯原発再稼動の時は、このまままた政府にごまかされて、
いつの間にか原発がたくさん動いていて、また福島の悲劇が起きるのではないかと恐怖を感じた。

節電の電化製品を開発することや、もっと小規模で発電できるシステムを開発したり、
大衆は電気がない時はない時なりの暮らしができる工夫をしたり、
そういうことに力を注いだ方が利口だと思うんだけど。
どんなものでもいつの時もある時はあるように暮らし、
ない時はないように暮らしてきたはずなんだけど。
電気もないと暮らせないと思わされているだけかも。

国家とは国民にいつの間にか、全ての価値をお金に換算し、お金のために働き、
たくさんお金を持っている人々が豊かで幸せな暮らしができるのだと思わせている。
そして、多くの人が最低必要以上のお金を手に入れたのに、
それでももっとお金を稼ぎたいと思っている。
明日食べる米がないほど困っている人はそんなにいないのに、
お金に困っていると思い、あくせく働かされている。
そしてお金を腐るほど持っているのに幸せではない人もたくさんいる。
幸せの指標なんて人それぞれだから、お金で幸せになれる人もいるかもしれない。
けれど私はお金があれば幸せなんて思わないし、思いたくない。
私達だって、お金がどうしても必要だし、お金で解決できることもあるけれど、
価値をお金で計るようなことはしたくない。
お金があればなんでもできる、なんて思っている人こそかわいそうだと思えてしまう。

本来、お金のために働くより、誰かのためとか世のために働く方が、
やる気も出て楽しくもあり、充実感もあるものだと思う。
それに付随して最低必要な暮らしが保障されていれば良いんだと思う。
公務員や政治家はその最たるものではないのか。

国民はこの国に生まれて良かったと思えるよう、
国家政府はもっと成熟した世の中を作っていけると良いのに。
人間なんて弱くて一人では生きていけないんだから、
国家に守られ、健やかであろうと病んでいようと、豊かな時も貧しき時も、
助け合って生きていけるような、本当の豊かさを湛えた国になるといいなあ。
(このフレーズは昨日『ツレがうつになりまして』を観ちゃった影響)
理想論だろうし、遠い道のりかもしれないけれど、一人からでも考えていないと、
始まらないことだと思うから。
まずは私達がその理想を掲げて、それに近い暮らしをしていくことから始めたいと思う。

話がそれてしまったなあ…

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