あっという間に年の暮れ、年々時は早く過ぎるように感じます。
昨日は蛸倉のプルプマルシェに出店しました。
仕事納めです。
まだ年賀状も大掃除もやってません。
さてさて前回に続いて規模、器、容量について。
そのことで感じることが多いんだよな。
どのくらいの規模からケースバイケース、臨機応変、
なんてことが通用しなくなるんだろう。
人が集まって社会になると、ルールを作ることは必要になるのかもしれない。
暗黙の了解が通用するのはどの程度までなのか。
この田舎に住んでいても、時代は変わったなあ、と思うことは多い。
郵便の配達員さんもちょくちょく変わるし、地元の人は減ったし、事務的になった。
JRの職員さんもそうだ。
学校の先生も、田舎に赴任してもそこに住む先生はいない。
移住するときの家探しで、役場から案内される物件のいくつかは教員住宅だった。
田舎では、赴任してきた先生は家族ぐるみでつきあったものだ。
おまわりさんは、今でも居住しているみたいだけど、馴染んでいる人は少なくなった。
田舎道で地元のおじいさんが停止線を越えて止まっただけで、違反をとられるようになった。
もちろん悪いのはルールがある以上、おじいさんなんだろうけど、
注意でいいのでは?誰も通ってないよ、と思ってしまう。
車一台通っていない小さい道路で赤信号を守る日本人…
そりゃあ事故につながるのかもしれないし、
一つ許してしまうと全てがなあなあになってしまうのだろうが。
何か出来事が起こったとき決まりばかりを適応しても解決できないことも多い。
またその都度新たな決まりを作るのもどうかと思うときもある。
規則がルールがってうるさいよって。
何でもかんでも決まってないと行動できないのっておかしいよ。
ケースバイケース、自己判断が通用する社会はどこまでなのか。
家族の中でもある程度決まりはあるだろうが、なあなあが通用する。
しないときつい。
規模を大きくしていくと、校則があり、社則があり法律、その他もろもろの決まりごとに囲まれている。
人は失敗もするものだし、気が抜けるときもある。
それを全てルールで裁かれるのは、きつい。
それを解消していくのは、人と人の繋がり、信頼関係、情けだったりするのだろう。
人と人の関係は四角四面、マニュアルどおりにはいかない、
またそれではおもしろくない。
人のことを自分のことのように喜び、時にけんかをし、謝り許し、成長する。
あ、話がそれてしまった。
ある出来事が起こったとき、考え話し合い、その都度解決していく。
臨機応変に対応して、人の日々の営みは行われているんだと思う。
それはルールばかりを尊重していてはできないことだ。
みんなそれぞれ必死で生きている。
日本は法治国家で、法に守られてはいるものの、恐ろしい事態を起こしてもいる。
その犠牲になるのは庶民、弱者だったりする。
0 件のコメント:
コメントを投稿