2015年12月30日水曜日

2015 年の暮れ






















2015年ももう終わってしまいます。
今年はどんな1年でしたか?

今年は(も)ばたばたと終わろうとしています。
長男の受験に始まり、合格と共に引越ししました。
夫は出張が多く、次男と二人暮らしが多かったですね。
次男は最後の中学生生活を謳歌し、
それと共に私も最後の中学生の父兄として楽しむことに精を出しました。
長男と違い、サッカーの応援も学校行事も参加してほしいとのこと。
こんなに出て行ったのは初めてでした。
夏にはオーストラリアに出かけ、9月には留学生の受け入れ、
運動会、神祭での練りにバンドに…
そして今は受験モードに突入なんですが、
友達は塾通いが多く、退屈してて、ちょっとの隙があれば、
いそいそと遊びに出かけてます。
来年にはたぶん晴れて高校生。

仕事の面では相変わらず地道に服やら小物やらを作っていました。
7月には紬市をやり、たまにオーガニックマーケットに出店。
新しい進展はありませんでしたが、いつものごとく、
地道に縫っていられたことには、家族にも感謝です。
来年は次男が高校生になり、もっと自由な時間ができるはず。
本格的に活動できるはず。
と、毎年言っているんだよなあ。
あー来年こそは。
子離れです。
自分のスタイルを確立しておかないと。

ということで、穏やかな一年だったな。

また来年もよろしくお願いします。
良いお年をお迎えください。

2015年12月23日水曜日

規模

あっという間に年の暮れ、年々時は早く過ぎるように感じます。

昨日は蛸倉のプルプマルシェに出店しました。
仕事納めです。

まだ年賀状も大掃除もやってません。

さてさて前回に続いて規模、器、容量について。
そのことで感じることが多いんだよな。

どのくらいの規模からケースバイケース、臨機応変、
なんてことが通用しなくなるんだろう。
人が集まって社会になると、ルールを作ることは必要になるのかもしれない。
暗黙の了解が通用するのはどの程度までなのか。

この田舎に住んでいても、時代は変わったなあ、と思うことは多い。
郵便の配達員さんもちょくちょく変わるし、地元の人は減ったし、事務的になった。
JRの職員さんもそうだ。
学校の先生も、田舎に赴任してもそこに住む先生はいない。
移住するときの家探しで、役場から案内される物件のいくつかは教員住宅だった。
田舎では、赴任してきた先生は家族ぐるみでつきあったものだ。
おまわりさんは、今でも居住しているみたいだけど、馴染んでいる人は少なくなった。
田舎道で地元のおじいさんが停止線を越えて止まっただけで、違反をとられるようになった。
もちろん悪いのはルールがある以上、おじいさんなんだろうけど、
注意でいいのでは?誰も通ってないよ、と思ってしまう。
車一台通っていない小さい道路で赤信号を守る日本人…
そりゃあ事故につながるのかもしれないし、
一つ許してしまうと全てがなあなあになってしまうのだろうが。

何か出来事が起こったとき決まりばかりを適応しても解決できないことも多い。
またその都度新たな決まりを作るのもどうかと思うときもある。
規則がルールがってうるさいよって。
何でもかんでも決まってないと行動できないのっておかしいよ。

ケースバイケース、自己判断が通用する社会はどこまでなのか。
家族の中でもある程度決まりはあるだろうが、なあなあが通用する。
しないときつい。
規模を大きくしていくと、校則があり、社則があり法律、その他もろもろの決まりごとに囲まれている。

人は失敗もするものだし、気が抜けるときもある。
それを全てルールで裁かれるのは、きつい。
それを解消していくのは、人と人の繋がり、信頼関係、情けだったりするのだろう。
人と人の関係は四角四面、マニュアルどおりにはいかない、
またそれではおもしろくない。
人のことを自分のことのように喜び、時にけんかをし、謝り許し、成長する。

あ、話がそれてしまった。

ある出来事が起こったとき、考え話し合い、その都度解決していく。
臨機応変に対応して、人の日々の営みは行われているんだと思う。
それはルールばかりを尊重していてはできないことだ。
みんなそれぞれ必死で生きている。

日本は法治国家で、法に守られてはいるものの、恐ろしい事態を起こしてもいる。
その犠牲になるのは庶民、弱者だったりする。

2015年12月14日月曜日

冬になったけれど、暖冬なのか、過ごしやすい日々。
急に寒い日があったけれど、その後、まだほとんど夜に薪ストーブをつけることで足りている。
あーもう年の暮れ。

今は家に次男と2人暮らしです。
長女は就職して独立、長男は大学生になり家を出ました。
夫は北海道に長期出張中。
よって次男と2人。
5人で暮らしていた時との違い。
色んなことで容量の違いを感じています。

米は半分以下に減りました。
一日に一升は炊いていました。
今は多くて4合です。
一番の大食い長男がいなくなったし、夫婦は年をとったので、他の食材も半減だな。
食事を作るのも楽になりました。
作りやすい量ってありますよね、2人分だけって作りにくいものもある。
残り物がなかったのに、煮物やサラダは残り物が出ます。
するとその日に作るのは残り物に足す程度。
揚げ物や焼き物も楽チン。
そこでちょっと困るのが道具。
鍋もちょっと大きすぎる。大鍋は用が足りすぎる。
圧力鍋でご飯を炊いているけれど、でかい方は出番激減。
子どもに持たせた小さい炊飯器で事足りるんだけど。
大皿も出番なし。
洗い物も減った上に、次男がだいぶやってくれる。

電気代は3分の1、千円程度。
水道代は半分くらい。
ガス代も半分くらい。

次男が部活引退して、洗濯物はさらに減り、
五右衛門風呂が壊れている今、風呂焚きも必要なく、家事も半減。

そう、時間ができました。
縫い物も本格的にできるようになったというのに、
ちょっと怠けている今日この頃。

2015年12月9日水曜日

価値観 常識 その二

町の広報委員をしています。
私の住む町は、広報誌を町から委託された広報委員が編集委員会を開き作っています。
町の企画課と一緒に。

町の話題やら特集やらコラムやらを書きます。
それを町からのお知らせとかと一緒に企画課が編集して、
月に一回、委員が集まり校正します。
同時に、記事の中で不適切な意見があるとクレームがついたりするんです。
まあ仕方ないなあと納得するものもあり、うーーん、これがだめなの?って思うものもある。
どの程度まで個人の意見が許されるのか…その塩梅がむずかしい。

コラムとかならまあたいてい許される。
でも特集とかは、町の広報誌だから、町の意見と重なっていないといけない。
町の意見、つまり町長の意見?
安倍さんと違う考えを持っているように、町長と違う意見のものもあります。
テーマによっては町の意見に従い難いものもある訳で。
あたりさわりのない事ばかりだとつまらない記事ばかりになって、
編集委員がいる意味がなくなってしまうし。
今のところ、この町の広報はなかなか高い評価を受けているらしく。
差別用語とか誤字脱字、言葉遣い、文法違い、ルビ…
そんなのは、もちろん校正に値するけれど。
色んな意見があるってことを述べたいときもある。
その上で町民の皆様、どうお考えですか?的な。
ナイーブなテーマだったり、詳しくもないことは、偏った意見になってしまうから、書けない。
誰かを傷つけることも書けない。
ただ、どうしても譲れない考えもあるから、それを押し付けるのではないから、述べることは許して欲しいんだよなあ。
こういう考え方をする人もいるんだって知ってほしいとき。

違う考えを否定するのではなく、それを知るって大切だと思う。
みんなおんなじ考えなんてないし、ツマンナイ。
受け入れられないものもあるけれど、世界が広がるときもある。

ものの見方って、見る方向でころころ変わる。
そっちから見るとそんな形だったのかって。
それは楽しく、自分を助けてくれるときもある。