私は基本無宗教です。
実家も夫の実家も仏教(浄土真宗)ですから、どちらの実家も仏壇があり、
仏壇に向かって線香を上げ、お鈴を鳴らしご先祖様に手を合わせます。
しかしながら、仏教に詳しくもなく、信心深くもありません。
ただの習慣みたいなものです。
そしてもれなく神棚もありました。
うちではお正月は神棚と仏壇に礼拝していました。
日本って神様も仏様も多いですよね。
高知で長く住んだ中土佐町の笹場地区は、神道が多く、
初めてのお葬式のときはびっくりしました。
亡くなった方は仏様になり仏壇に入るけれど、
その後神様になるらしい。
今の日本では大多数において宗教って、
結局お葬式とか法事のときにどうするかって感じになっている気がします。
さて先日、プジャというインド、ネパールで古くから続けられている伝統的な神様への礼拝儀式に参加しました。
目に見えない力とかを特別信じているわけでもないし、敏感なわけでもありません。
でも日ごろ、目に見えないもので動かされている物事は多いとは思っています。
頭で理解できない動きや現象ってありますものね。
ま、さておき、
儀式は楽しかったです。
日本でいえば古神道みたいなものらしいですが、
馴染みのある神社でお参りみたいなのや、神主様がお祓い?している感じとは違うから、
やっぱり、新興宗教の儀式みたいに見えてしまうのは、なんだかなあって感じてしまいました。
たぶん馴染みの問題です。馴染んでないと違和感が残るっていうか、偏見があるんでしょうね。
でも教えというか真理というか、それ自体には共感できました。
祈りの中では、説明をして下さって、終ると何だかすっきりして心が軽く前向きになっている気がして、
それで十分かなって感じです。
ま、いいとこどりで、信者になるわけでもなく、気持ちの持ちようとして、学ぶところもあり、
楽しい時間が持てて、良かったです。
運命は決まっているのだと思っていますが、
だからって何も考えず何も選ばず何も行動せずってこともできませんよ。
良かれと思うことを、みんなやっているんだと思います。
運命に逆らわず、後ろ向きにならず、楽しんで生きられれば上等です。
どんなに健康に気をつけていても、不治の病になってしまう人や、
世の中に貢献していたり、とても人徳のある方が早くに亡くなってしまったりすることは、
身の回りにあって、どうしてあの人がってことを思うことは少なくありません。
それは業(カルマ)の仕業だという教えもありました。
末代まで呪ってやるとかいうあれ。
思いもよらぬ不幸はその仕業かもしれない。
ほとんどの人が業を抱えているものらしい。
もしそれが本当なら、自分に起こる災いはどうにかうまく乗り越え、
それを末代に残る恨みの感情を残したくない、そんな業は浄化させたいものだ、と感じました。
今回の儀式で、業が落とせたのか、神様の恩恵が降りてきたのか、私には感じることは難しいですが、
どんな結果も良い方向へ向かうものだと信じていられれば…
すべてが心の持ちようにかかっている気がしています。
業:
行為。行動。心や言語のはたらきを含める。善悪の業は因果の道理によって後に必ずその結果を生むというのが仏教及びインドの多くの宗教の節。⇔果報(広辞苑)
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