十勝は今ごろ、アジサイが満開です。
相変わらず肌寒い日々です。
先日、自殺ほう助のニュースがありました。
三浦春馬さんの自殺報道もありました。
筋ジストロフィーで全身の自由がなく一人暮らし、
なんて聞くと、
さぞかし辛かろう、死んでしまいたい、早く楽になりたい、
って考えるのも仕方ない、とも思う。
私がそうであっても死にたいって思うだろうなって。
自分の最期を選べる自由があってもいいのではないか、
それは決して弱く逃げの決断ではないのかもしれない、
とも思うのです。
生きてると多かれ少なかれ辛いことあります。
私だってあります、もちろん。
死んだら楽になれのかも、なんて思うことも。
でも、自殺なんてできません、だって怖いもん、たぶん痛いもん。
でも自殺を選ぶとすれば、
それだけの強い意志なのならば、その自由、権利も認められるかも。
本人の辛さはわからないのだから。
でもでもでも、それを認めてしまうことはできません。
今のところ私は悩むことはあっても自殺を選ばない、
それは少しでも希望があるから、楽しいことがあるから、
たぶん悲しむ人がいるから、今日目の前にやろうとしていることがあるから…
それが全て無くなったとしたら死を選ぶのだろうか。
もしそうだとしたら、そんな世の中はおかしい。
ほとんどの人にそれぞれの生きづらさはある。
でもささやかな喜び、役割、なんてものもあるはず。
そこに生きていてくれるだけで救われている人もいるはずだから。
どんなに痛くても辛くても、誰かに必要とされている実感があれば、
会いたい人がいれば、誰かのその先が見たければ、
読みたい本があれば、夕方の相撲が楽しみならば、
昼にプリンを食べられるのなら、生きていけるのかもしれない。
読みたい本があれば、夕方の相撲が楽しみならば、
昼にプリンを食べられるのなら、生きていけるのかもしれない。
全ての人に生きる権利を感じることができる世の中になりますように。