2016年9月27日火曜日

さてまた引越し決定

先週、次男が北海道へ転入試験を受けに行き、無事合格できました。
10月から北海道の高校へ通います。
次男は2歳から住み続けた高知を離れることになります。
受験前には「受かっても落ちても悲しい」ってなことを言っておりました。
行きたい高校で受かりたくはあるけれど、受かれば友達とは別れなければならない。
これから先、会う機会は何度かやってくるだろうし、高知へ来ることもあると思う。
大人になった私には、どうしても会いたいと思えばいつだって会える、と思うことができる。
だから、寂しくはないと。
これから先の出会いや新しい生活を楽しみにしていても、不安もあるんでしょう。
たぶん放浪癖のある私から見れば想像できないくらいに。
ま、しかし、受かってしまえば、嬉しそうで、すっきりした顔をしていて、
引越し決定から引越しまでが6日しかない彼は、
最後の高知での高校生活をエンジョイしているみたいです。

ほんとに会いたいと思えば会える、とは思っています。
しかし、会いたいと思わなければなかなか会えないことも、
行きたいと思っていても行けなくなるかもしれないことも、
年を取るにつれ実感して来ました。
14年暮らした(私の今までの人生で、一番長い時間過ごした)高知を離れて、
次にいつく来ることがあるだろうか…
また来たいとは思っていても、寄り道できる地理ではなく、
行ったことないところに行きたかったり、帰省しなくちゃだったり、
やはり、高知はわざわざ来る場所です。
そう思うと、何だか私もそれなりにセンチになったりするかも。
また来るとはいえなくても、でもまた来たいです、高知。

南国土佐っていうわりに冬は寒い高知、
はんぱないくらいに雨が降り台風銀座の高知、
海岸線がとーーーーーーっても長い高知。
そこは青く果てしない海と空が広がり、
サーファーが喜ぶメッカ、
おらんくの池は太平洋で、しかも鯨が泳いでいて、
カツオの消費量が一番で、
めじかが美味しくて、
海産物が美味しいのに農作物も豊富で、
山もすぐそこ、
川はうそみたいに澄んでいて、
動物たちがわがもの顔でそこまで来るし、
高い山山を背に外海を見て暮らしてきた人々は、
あっけらかんとして、
酒を浴びるように飲み(男女とも)、したい放題の男たちと、
それをうまくあしらってきたはちきんの女たち、
いつまでも元気でいてください。

思いもよらず長い時間を過ごしてきた高知は、今からも気になる存在だと思います。
子どもたちにとっては間違いなくふるさとだろうし。
高知でかわいがってくださった方たちに感謝、
是非北海道へ遊びに来てください。
待ってます。

2016年9月25日日曜日

カルマ

私は基本無宗教です。
実家も夫の実家も仏教(浄土真宗)ですから、どちらの実家も仏壇があり、
仏壇に向かって線香を上げ、お鈴を鳴らしご先祖様に手を合わせます。
しかしながら、仏教に詳しくもなく、信心深くもありません。
ただの習慣みたいなものです。
そしてもれなく神棚もありました。
うちではお正月は神棚と仏壇に礼拝していました。
日本って神様も仏様も多いですよね。

高知で長く住んだ中土佐町の笹場地区は、神道が多く、
初めてのお葬式のときはびっくりしました。
亡くなった方は仏様になり仏壇に入るけれど、
その後神様になるらしい。

今の日本では大多数において宗教って、
結局お葬式とか法事のときにどうするかって感じになっている気がします。

さて先日、プジャというインド、ネパールで古くから続けられている伝統的な神様への礼拝儀式に参加しました。
目に見えない力とかを特別信じているわけでもないし、敏感なわけでもありません。
でも日ごろ、目に見えないもので動かされている物事は多いとは思っています。
頭で理解できない動きや現象ってありますものね。
ま、さておき、
儀式は楽しかったです。
日本でいえば古神道みたいなものらしいですが、 
馴染みのある神社でお参りみたいなのや、神主様がお祓い?している感じとは違うから、
やっぱり、新興宗教の儀式みたいに見えてしまうのは、なんだかなあって感じてしまいました。
たぶん馴染みの問題です。馴染んでないと違和感が残るっていうか、偏見があるんでしょうね。
でも教えというか真理というか、それ自体には共感できました。
祈りの中では、説明をして下さって、終ると何だかすっきりして心が軽く前向きになっている気がして、
それで十分かなって感じです。
ま、いいとこどりで、信者になるわけでもなく、気持ちの持ちようとして、学ぶところもあり、
楽しい時間が持てて、良かったです。
運命は決まっているのだと思っていますが、
だからって何も考えず何も選ばず何も行動せずってこともできませんよ。
良かれと思うことを、みんなやっているんだと思います。
運命に逆らわず、後ろ向きにならず、楽しんで生きられれば上等です。

どんなに健康に気をつけていても、不治の病になってしまう人や、
世の中に貢献していたり、とても人徳のある方が早くに亡くなってしまったりすることは、
身の回りにあって、どうしてあの人がってことを思うことは少なくありません。
それは業(カルマ)の仕業だという教えもありました。
末代まで呪ってやるとかいうあれ。
思いもよらぬ不幸はその仕業かもしれない。
ほとんどの人が業を抱えているものらしい。
もしそれが本当なら、自分に起こる災いはどうにかうまく乗り越え、
それを末代に残る恨みの感情を残したくない、そんな業は浄化させたいものだ、と感じました。
今回の儀式で、業が落とせたのか、神様の恩恵が降りてきたのか、私には感じることは難しいですが、
どんな結果も良い方向へ向かうものだと信じていられれば…
すべてが心の持ちようにかかっている気がしています。

業:
行為。行動。心や言語のはたらきを含める。善悪の業は因果の道理によって後に必ずその結果を生むというのが仏教及びインドの多くの宗教の節。⇔果報(広辞苑)



2016年9月15日木曜日

島国

日本は言わずと知れた島国。
独特の文化が育ち、そして社会人類学的にもおもしろい。
そして、その中でもまた島々に分かれていますよね。
娘の中学のとき(8年くらい前)の社会の地図帳には、
「日本のおもな島」って表の一番上には「本州」って載ってて笑いました。
そうだ、本州は島だ、本州って島の名前なんだ、って。

本州は大きすぎるし、北海道は一応ひとつの自治体だからおいといて、
四国と九州。
私は九州で生まれ育ち、今は四国で暮らしているわけですが。
大きく違うことがあります。
九州は8つの県に分かれていますが、大きく九州人の意識があります。
沖縄や奄美諸島はちょっと違うかもしれませんが。
九州以外で知り合った人と話すとき(特にはなれたところで)、出身に話が及ぶと、
「出身は九州です」と言うことは良くあります。
そして「え、私も九州、九州のどこ?」と話は続きますね、たぶん。
「私、長崎です」「え、私は福岡」「おーーー」
そこで握手とかって感じになることも想像がつく。
そこで四国。
四国ではそんなことはありません。
四国人って意識はないし、四国の他県のことは関心も薄い。
他県は四国であろうと、本州であろうと、他県です。
出身を聞かれると、「高知です」ってきっぱり言いますね。
「四国です」とは言わない。
特に高知がそうなんでしょうか。
けっこう高い四国山地で、他の3県と隔離された上に外海を向いていますからね。
他の3県は仲良かったりして。
高知は特に言葉も違う気がします。
そして、高知以外はけっこう閉鎖的で独特の雰囲気を持っていると感じます。
高知はおおらかで大ざっぱな気質を持っていて、
さすが太平洋を「おらんくの池」というくらいだから。
四国もおもしろい文化ですね。

とにかく、島の意識の違いでした。

2016年9月9日金曜日

秋の気配

8月の末に急に涼しくなって、夜なんか毛布出すくらい、
それから晴れた昼間もすっかり秋の空気だったから、
もう残暑なんか来ないんじゃないかと、思っていたら、やっぱり残暑来ました。
台風の影響もあって、むしむしべたべたして、夏の日差しを取り戻し、
昼間は外に出られません、やっぱりまだ9月だった…
でも今年の夏は暑かったから、残暑も気が楽です。
つくつくぼうしはずいぶん前から鳴いているし、栗も食べたし、さんまも食べた。

先だって障害者施設で事件がありました。
心痛い事件。
複雑でした。

娘は同じような施設で働いています。
入所している知的障害者の生活支援のお仕事。
昨年までは重度の知的障害者をお世話していました。
私も少しだけ接しましたが、彼らは癒しの存在でした。
身内ではないので言える事かもしれないけれど…

昔は助けられなかった命を助けられるようになったことは、必ずしもいいことではないのではないか…
障害を持って生まれ、本人も家族も辛いのではないか…
そんなことは高慢な考えじゃなかろうか。
どの命も同じ価値なんだろう、と思います。
今のところ私は障害者とは認められていませんが、
私の命のほうが彼らの命より価値があるとは思えない。
障害を持ってないから必ず幸せになれるわけでもなく、
障害を持っている人が必ず不幸なわけでもない。
確かに障害をあることで苦労することもあるだろうし、家族も大変なこともあるでしょう。
でもそのことで成長できることは多いわけで。
そもそも障害とはって話にもなる。
それぞれ長所短所を持ち、誰もが一人では生きられない。
今は発達障害とかなかなか判断のつかない障害もあるから、私だって軽く障害かもしれないし、
これから障害を持つ可能性もある。

どうして神様は罪のない人に障害を与えるのか。
もしかしたら障害を持って生まれることには意味があるのかもしれない。
そんな時、FBで見つけたページ、是非読んでみてください。
http://virates.com/society/52130965
この地球の生命体の歴史の中で人類も発達してきたわけで、
その中で今も適応し、進化していっているんだろう。
感情論や倫理や常識で語るよりとても説得力がある。
環境が変化したら、健常者が弱者になるかもしれない。
いろんなタイプの遺伝子を持つことは人間の生き延びる知恵なんだと。
そんなこと考えてなかったから、目からうろこでした。
一人ひとりの命は同じように大切ではあるけれど、
大きく広げて考えると、地球、人類、宇宙の歴史の中で、ほんの一瞬の輝きですらないかもしれない。
そしてどんな命も無駄じゃないんだな。

さて、事件のことですが…
あの事件の後、娘の施設でも短期利用者からキャンセルが出たり、
いろいろ指導があったりと、それなりにばたばたしたみたいでした。
犯人は許されないことをしたとは思います。
でも反面、どうしてそんな考えを持つようになったのか、その背景が気になります。
たぶんとても少数派の考えだとは思うのですが、
この事件のせいで施設が地域から隔離されたりするんですよね。
地域と密着して、お互い助け合うことが大切なのに。
すぐに対策として、防犯ばかりに目が行くような、うわべのきれいごとで弱者を排除するような、
そんな社会が彼を生んだのかもしれない。
また同じような事件がおきませんように。